2011年01月

2011年01月28日

MADE IN DREAM

もうすぐ1月も終わりですね。
明日はTAの納会、
31日は研究室の新年会、
2月2日は生協の納会
と飲み会が続きます☆


さて、最近常磐線の車内で見かける広告。
3月にデビューする東北新幹線「はやぶさ」の広告。
無難に「はつかり」にすればよいものを、
「はやぶさ」なんか奪ってきたあたり何とも言えないのですが、
さて、その広告がこちら。

F1001080

MADE IN DREAM

と題された広告には、
SLの牽引するはつかり、からディーゼル特急のはつかり、
さらに初代東北新幹線のやまびこ、さらにはやて、そしてはやぶさと
(なぜか高度成長期の主役だった電車特急はつかりがないのですが)
東北へと向かう歴代の列車が並んでいるわけですが、
よく見ると、こういう文章がついているわけです。


かつてニッポンが変わる時、世界が変わった。
夢の超特急が走る時、時代が加速した。
メイド・イン・ジャパンには、夢を現実にする力がある。
その力は今も、失われてなんかいない。失っているのは自信だけだと思う。
むしろニッポンは、少し大人の国になった。
環境とかカルチャーとか、できることも増えた。立ち止まっていても、はじまらない。
もういちど、上を向いて歩こう。遠くへ向かって走り出そう。
まもなくニッポンは、新しい速さと快適さを手に入れる。
またひとつ私たちは、夢を現実にする。
―2011年3月5日、東北新幹線E5系「はやぶさ」デビュー。
 


まぁ、それなりにかっこいい文章であることはわかります。
そして、最近の風潮からして、心に留まる文章だろうこともわかります。

昭和時代の背景にあしらってあるのは
富士山と東京タワーと代々木体育館(東京オリンピック)。

現代の背景にあしらってあるのが
東京スカイツリーと高層ビル群(モデルがどこかよくわからないけど)。


最近スカイツリーの報道がすごく多いわけですが、
やっぱりどこか「もう一度東京タワーの感動を!」みたいなところがあると思うんですよね。
このポスターにはいろんなキーワードがちりばめてあって、

「夢の超特急」はもちろん東海道新幹線のこと。
高度成長の象徴的存在であるわけです。

「メイド・イン・ジャパン」
やはり高度成長を境に「品質が良くないもの」から「優れたもの」へとそのイメージを大きく転換したもの。

「上を向いて歩こう」
勿論坂本九の代表曲。1960年代前半に世に出されたこの曲は
高度成長と徐々に変わりゆく日本と結び付けられるもの。

「ニッポン」
メイド・イン・ジャパンが世界に向けて発せられた
高度成長以降の日本の姿であるならば、
やっぱり「ニッポン」は日本人自身の掛け声のようなものではないだろうか。
古く東京オリンピックでは「ニッポン、チャチャチャ」と応援し、
一時期あんまり聞かなかったと思いきや
最近ではサッカーの試合で「ニッポン!ニッポン!」と応援するのをよく耳にする。
「ニホン」でも「ジャパン」でもなく「ニッポン」
この音にはやはり自分たち自身の意識を高揚させる響きが存在する。


やはり、この広告は、(どのくらい幅広い年齢層にウケるかは疑問だとしても)
例えば、中国をはじめとするアジア諸国にさまざまな面で押されて
存在感がなくなっているように見える現在の日本の停滞感を捉え、
「もう一度自信を持って頑張ろうよニッポン!」
というメッセージを発することで人々の目を引くのではないかと思うわけです。

もっとも、これが通用する世代はやはり限られてくるような気がします。

冒頭示した通り、このJRのポスターは
東京と東北(青森)を結ぶ列車の変遷を重ねているわけです。
戦後、東北へと向かう列車は
①1958年にSLのはつかりが初の東北特急として登場
②1960年にキハ80というディーゼル特急になり
③1968年から1982年まで電車特急が上野―青森を結び
④1982年に盛岡まで東北新幹線が開業
という変遷をたどるわけです。

特に1968年には東北本線の全線電化が完成し、
ヨン・サン・トウと呼ばれる全国に特急網を完成させた国鉄のダイヤ改正があり、
以後東北本線には昼間は
青森行の「はつかり」、盛岡行の「やまびこ」、仙台行の「ひばり」、
秋田行の「つばさ」、山形行の「やまばと」などの特急が、
上野から1時間に2本も走り
(それ以外に新潟方面の「とき」「いなほ」、
長野方面の「あさま」「白山」も1時間に2本走っていた)、
夜は青森行の「はくつる」「ゆうづる」「あけぼの」が合わせて10往復も走り
その他、仙台行の「まつしま」、山形行の「ざおう」、会津若松行の「ばんだい」など多数の急行列車が走っていて、
国鉄時代の東北イメージといえばこの68年から82年までが一番に出てくるのです。

僕の母親も東北本線の特急や急行で上京したり帰省して、
僕が生まれたあとも、急行がなくなるまで
祖母は上京する時に急行を使っていたんだとか。



なのに、何故いわば黄金時代の③が抜けているのか。

このポスターを見た一番の違和感はそれでした。
JRのポスターなのに、
なんで、いわば東北の国鉄が一番輝いていた時代を
載せないのか。
これは非常に不思議な話。
東北に向かう列車のポスターとしては何だか変。



これは想像の域を出ませんが、
やはり68年から82年という時代、
高度成長が終わりを迎え、いわゆる低成長時代からバブルが始まる前
という時代なので、
取り上げる時代としての華やかさには多少欠けるところがあるということかもしれません。
あるいは、連続した時間軸を示してしまうと
インパクトが薄れるからか。
黄金時代の東北本線を知っている世代から見れば
きっと今の新幹線は非常に味気ない。
衰退したイメージで捉えられてしまう恐れもある。

多分、僕と同じような世代の方の親世代が
ちょうどこの頃学生時代を過ごしているはずなのですがね。


つまるところ、やはりこの広告が共感を呼べるのは
東京オリンピックを目の当たりにした世代ということになってしまうのではないでしょうか。
例えば東京オリンピックの年に生まれた人は、
物心ついたころには大阪万博がすでに終わっていて、
高度成長というと華やかなイメージよりも
「公害」をはじめとするあまりよくないもののイメージが思い浮かぶ可能性もあります。

夢の超特急は時間が経つと「騒音公害」を生み出す存在になってしまうわけなので。

だから、東京オリンピックを目の当たりにした世代か、
目撃していないけれど、いわば神話として美化されているひとびとには
強力に訴えかけるでしょうが、

それ以外の世代にどれだけ響くかはよくわかりません。

というわけで、恐らくこの広告のメインターゲットは
50歳以上70歳以下あたりの年代ではないかと。



もっとも、そんなことが言いたかったわけではなく、
非常に気になったのは2点。


ひとつは「失っているのは自信だけだと思う。」というフレーズ。

ほんとに?

本当に失っているのは自信だけなのか?
失っているのは「自信」なのか?
あるいは自信を失っているのは誰なのか?


簡潔に個人的な考えを言うとすれば
「失っているのは自信だけではない」し
「失ったのは自信ではない」し
「自信を失ってるのは人ではなく企業ではないのか?」
なんて思ったりするわけです。

これじゃ、「お前らが自信を失ってるのがよくないんだから自信持てよ!」
っていう単なる精神論にしかならない気がします。
そんなね、自信なんて「持て」って言われて持てるもんじゃないし。

そして、完全に自信を持った前向きの経営とは反対の方向を言っていると思われるJR東日本に
そんなこと言われるのも何とも言えないし。
「自信」を失うことになった要因の結構な部分を
企業の行いが占めているようにも思うし。


そして、ふたつめはやはりこの「東京タワー」と「スカイツリー」を重ね合わせて
ノスタルジーに訴えかけてくる方法。

時代の状況も社会の状況も違うし、
どんなに「疑似東京タワー」を作ったところで
「東京タワー」になれるわけがない。
確かに相対化が好きな日本人には
「日本一」なんてのはグッとくるわけだけれど、
なんというか(僕は東京タワーができるころを知ってるわけないのですが)
非常に空疎というか虚構というか、なんか痛々しい。

そう、空虚

きっと、東京タワーはただ単にその頃の人々の意識の象徴的な存在だったんだと思うんです。
東京オリンピックも東海道新幹線も東京タワーも
その頃の人々の実感の象徴だったからこそ
人々の共感を得ることができる。
このポスターを見て、人々が東京タワーや東京オリンピックに連なる
さまざまな「自分自身の高度成長の記憶」を呼び起こすことができる。
多分、手前に写ってる列車たちも、
当事者にとってはきっと同じもの。
特急列車は高嶺の花だった時代、
きっと、あこがれの東京へと向かうあこがれの列車として
記憶にとどめられているんだと思います。


では、スカイツリーは?はやぶさは?


正直、それらは何かを象徴する存在にはなれないと思う。
やはり、「象徴」になるためにはそこに連なる物がなければならないと思うけれど、
残念ながら、現在の日本にそういうものを見出すことはできない。


だから、なんとなく空虚なノスタルジーにしか見えなくなってきてしまう。


空虚なノスタルジーに「自信を持とうよ」という精神論が重なって
もう、痛々しいことこの上ない。



まぁ、あくまで広告なので、
別にJR東日本が悪いわけではなく、
こういう広告が受けるという時代の状況が
悪いわけですね。


もし本当に、遠くへ向かて走り出したいのなら
精神論やノスタルジーに走るのではなく、
現実をしっかりと見据えたお話が必要だと思います。
勿論広告にそれは期待しないけど。


drecom_puni_jp at 03:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 社会 

2011年01月26日

学期末

いよいよ今日から後期の試験監督に入りました。


試験が始まると、今年度ももう終わりって感じが
すごくしますね。

若干気になるのは
机の上に携帯を出したままとか、
飲み物を置いているとか、
学生証を出していないとか、
そういう試験本体とあまり関係ないところ。

僕も授業中は飲み物だしてたりしますが、
さすがに試験中は仕舞ってました。
周りもそんな感じだったような気もするんですが、
今は結構な割合で出してるんですよね。
別に先生しだいなんでOKっぽいですが。

携帯とかは完全にアウトなので注意するのですが、
なんというか、いろいろと机の上に物が載ってると、
気を遣います(汗)

法学部とかだったらアウトだな~


そんな今日この頃。

生協も基本的に今週までなのです。
今年は卒業するバイトさんが多くて(一応僕も…)
しかも、結構長い期間一緒に働いてきた人が多いので、
一回一回一緒にバイトに入るたびに
「今日で一緒に入るの最後ですね」
なんて会話になったりします。

僕も夜間入るのは今日が最後。
3年間一緒に働いてきたバイトさんも
一緒に入るのは今日が最後でした。


なんか一抹の寂しさを感じますね。


もっとも、4月に再びレジに立ってる可能性もかなりあるんですが(笑)


drecom_puni_jp at 02:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 大学 

2011年01月25日

ついに来ました。

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今日、帰宅したら
東急カード(現金ポイントカードを持ってるんです)から
一通の封書が届いていました。


「(株)東急ストア「布佐店」は、誠に勝手ながら平成23年2月28日(月)をもちまして、閉店させていただくこととなりました。」


遂に、公式に閉店のお知らせが届いたわけです。
やはり、噂は本当だったわけですね。


20年。

僕が小学校に入るのとほぼ同時に開業したとなると、
ほんと、自分の生活とともにあったような存在なので
なんだか、ひとつの時代が終わろうとしているような、
そんな寂しさを感じずにはいられません。


小学校の時は、よく親にくっついて
東急の中のATMに行ったり、
京樽のお寿司を買ったり、
土曜日や日曜日のお昼ご飯に
ごく稀に、「東急のパン」を買うのが楽しみだったり、
サンリオコーナーや文房具コーナーは
暇つぶしにぴったりだったり。
やったことはあんまりないけど、
「ジャンケンポン」とかいうゲームがあったり、
お菓子が入ったクレーンゲームなんかも置いてあって。
ガチャポンとかもあったなぁ。
殆どやらなかったけど。

東急でとっても気になって買ってもらい始めて食べた月餅。
あれも小学校の時だったなぁ。


中学校に上がると
通学の途中に東急の脇を通ることも多くなり、
お総菜コーナーなどの独特の匂いの温かい排気とか、
妙に記憶に残っています。
18時を過ぎるとインストアベーカリーの菓子パンが
100円均一になると聞いて、
ごく稀に買いに行ったりしたっけ。

小学校5,6年の担任の先生が異動するときには
知り合いのお母さんが働いてた東急の花屋で花束を作ってもらったり、
そういえば、母の日にカーネーションの鉢植えを買ったり。


高校では若干遠ざかってたけど、
大学に入ってから、日々のお菓子だとか飲み物を
たくさん買うようになって。
欲しいものを見つけては、家族用の物として買って帰ったり。


東急のトイレには殺菌装置がついてて、
手を入れて「ブー」ってなるまでそのままにしてると
殺菌完了の合図。

トイレより奥にあるバックヤードがいつも気になってたなぁ。



そう、確か東急ができる前、
まだ幼稚園生だった頃は、「ビックコバヤシ」(今のナリタヤ)まで
自転車で買い物に行っていた記憶がある。
ビックの方が遠いし、幼稚園と方向が違うから
そういえば、東急ができてからあんまりビックには行かなくなった。

だからやっぱり小学校以降の買い物の記憶は圧倒的に東急の記憶。
そして、やっぱり東急のパン屋ってのが子どもには楽しみだった。
今のように「中食」も「外食」も殆どしない時代。
本当にたまに、お昼に食べる東急のパン屋のパンはおいしくて、
小学校も高学年になると、お使いを頼まれたりもした。

ATMも京樽も、サンリオもゲームコーナーもメガネ屋も、
全部なくなってしまったし、
随分と姿は変わってしまったけれど、
ずっとそこにあった東急ストア。


ずっとそこにあるものだと思ってた。



たくさんの思い出の詰まった東急ストアも
あと1か月ちょっとで閉店。


そんなたくさんの思い出たちとともに、

さようなら、東急ストア。

drecom_puni_jp at 01:56|PermalinkComments(1)TrackBack(0)mixiチェック 我孫子 

2011年01月24日

野沢菜漬が届きました。

野沢温泉から野沢菜漬が届きました。

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野沢温泉村から産地直送。

早速食卓へ。

一つの袋に結構入っていて
お皿に盛るとかなりの量ですが、
多分明日の朝にはなくなる(笑)

そのくらいシャキシャキしていて
若干ピリッとした野沢菜のいい味が出ています。

昔、野沢菜を育てたことがありますが、
やはり、なかなかうまく育てられませんでした。

野沢菜って、出来上がった漬物だけ見る機会が多いので
なんとなく葉物の野菜のように見えますが、
実は、1メートル近くにまで成長するんだそうで、
かぶの仲間なんだとか。

まぁ、昔育てた野沢菜は、1メートルもいかなかった気がしますね
絶対に。



野沢菜漬があれば
ご飯がいくらでもいけてしまいます☆

drecom_puni_jp at 00:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック つれづれなるままに 

2011年01月23日

東急ストア閉店の噂から考える

駅前の東急ストア。

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去年の夏頃から布佐の東急ストアに関する噂が流れていました。


「来年(つまり今年)の2月で東急が閉店するらしい」



これは寝耳に水。

確かにそれほど混んでいるわけではないけど。

でも、布佐にあるスーパーは東急とナリタヤしかないし、
いくらなんでも駅前の東急がなくなるとは…?

と思ったものです。


しかし、話は妙に現実的で、
なんでも、普通こういう店舗は期限を区切った契約で借りているんだそうで、
割と多いのが20年。
要するに、今回はそれをさらに20年更新するのではなく、
契約を解除するという話らしい。

定期借家?
ようわからんが。


そう言われてよくよく考えてみると、
僕が幼稚園の頃は確かに東急ストアはなかった。

いつできたのか、いまいち覚えていないけれど、
両親によると
「確か引っ越してきたころはスーパーができる予定って言って
売り込んでいた気がする」とのこと。

2月で20年だとすると
2011年2月-20年=1991年2月
つまり、その時僕は幼稚園の年長さん。
1991年の3月に開店したとすれば
確かにちょうど20年で、我が家の記憶とも合致する。


なるほど、妙に現実的だ…


ちなみに、東急ストア、
僕が中学校くらいまでは
東急ストアのほかに、さくら銀行(現三井住友)のATM、
サンリオショップ、メガネや、京樽、花屋、パン屋、写真屋、クリーニング屋
が入っていたわけですが、
ATMは我孫子支店ともどもなくなり、
サンリオショップ、メガネや、京樽は撤退し現在これらが全部キャンドゥーに。
写真やは確かまだあったけど、クリーニング屋はまだあるのかな、
多分ある気がしますが未確認。

随分寂しくなりました。


ちなみに撤退を裏付けるかのように
「東急のパン屋さん」として慣れ親しんできた
インストアベーカリーのホルンには
ついに「1月31日限りで閉店」との掲示が出ました。

まだ東急ストアからは何のアナウンスもありませんが。


さて、そんな東急ストアの騒動から何が見えてくるのか。


ちなみに、成田線沿線では
一足先に僕が高校の頃湖北の東武マインが閉店し、
去年伊勢角も閉店。
新木のマルヤは開店してまだ10年くらいしか経ってないはずですが
東急よりはお客さんの数は少ないはず。
木下のライフは多分東急より少し後にできたはずで、
こちらも似たような状況。


恐らく東急ストアはそこまで業績が悪いわけではないと思うのです。
これは推測の域は出ませんが。
ただ、やはり今後20年の採算は見込めないのでしょう。
これは事実だと思います。

90年の初め、僕が小学校にあがるころは
平和台団地もでき、随分と活気づいていたわけです。
ところが、現在では子どもの数も半分くらいになってきた。
食品にしても、ひとつの家庭で消費する量が全然違うはずです。

スーパーは確かに安価で便利ですが、
その裏には「安くする秘密」があるはずです。
やはり、その根本は大量販売にあるのでしょう。

カートを押しても余裕で通れるほどの広さに
大量に置かれた商品。

これがスーパーの姿だと思います。

しかし、お店の面積が大きいということは
いくら郊外だからとはいえそれなりの家賃は発生するはず。
多少利益を削っても大量に売るという薄利多売は
「多売」できなくなれば、単純に利益の減少を意味してしまうはず。

つまり、それなりの客数が見込めないと
やはり採算が合わないんだと思います。

この点は個人商店とは若干違うところでしょう。
もちろん個人商店は大変苦労していると思いますが、
多売でなければ利益が見込めないというやり方ではないはずです。

スーパーでは例えば一日当たり1000人以上の客数がないと
採算を見込めないのに対し、
個人商店では100人で採算が取れるとか
そういう利益を上げるための絶対的な客数が違うのではないでしょうか。



勿論それこそがスーパーが広がった所以であるわけですが。



但し、こういう反論がありうると思います。

「でも、車を使えば大型ショッピングセンターがあるじゃん」

そう、確かに車を走らせれば、
我孫子のエスパ(ヨーカドー系列)や
千葉ニューのイオン(母親が働いてるわけで)といったショッピングセンターがあるし、

食料品程度なら
ナリタヤかマルヤかライフがあるじゃないかというのも
また事実。


全国の郊外ないし地方都市の
特に幹線道路沿いにはこういった大型ショッピングセンターが
わんさかできているわけで、
ちょっとした地方都市でも郊外の町でも
巨大なイオンや地方スーパーが存在するわけです。

もちろんこれらは、中小の市街地にあった個人商店や
小さなスーパーを潰しながら、それらの機能を吸収するようにできあがったわけで、

シャッター通りと大型ショッピングセンターは
表裏一体の関係なわけです。


では、それで何が問題なのか。


さまざまな問題が挙げられますが

ここでは年月の経過という点に絞って考えてみます。

まずお店の側。
これはよく言われることですが、
大型ショッピングセンターとて、採算が合わなくなれば撤退する。
その結果、空白地が生まれてしまう。
つまり、ショッピングセンターがこの先ずっと採算をとれるという保証がない以上、
そういったお店がいつ撤退するかもわからないという
お店の側の年月の問題が挙げられます。

そして、最大の問題はこちら、
消費者の側の年月の経過。

布佐の場合は一戸建てが多いこともあり、
入居した家族がそのまま町とともに年を取ります。
これは全国の一戸建てを中心としたニュータウンや団地は
どこも同じでしょう。
そうですね、おおよそ東京から30分以上かかるところですかね。
東北本線だと大宮以北、
常磐線なら我孫子以北、
総武線なら千葉以東、
中央本線なら立川以東、とか。


恐らく布佐の場合、今はまだ50代が主力です。
そろそろ定年を迎えるかなぁという家庭が多いはず。
では、あと10年経ったらどうなるのか。
確かに60代でも車は運転できるはずですが、
やはり年を経るにつれ、車で遠出というのは負担になるでしょう。
やはり、日常的な買い物は徒歩圏内からせめて自転車で回れる範囲で
できる必要があるはずなのです。
しかも、消費する量も減少してくる。

子どもも自立し、年金生活をしている2人家族

こういった家庭は多分今後増えるはずで、
そういう家庭で日常的に必要な買い物は
それほど多くないわけです。

そのために車で20分出かけるのはやはり苦痛でしょう。
今まで、「車があれば便利」だったのが
「車がないと生活できない」へと変わってしまう。
運転が困難になった瞬間に生活に困ってしまう。


日常の生活圏でそれなりに日常の物が買える

そういう町づくりが今後必要になるのではないでしょうか。


そう考えると、やはりスーパーやショッピングセンターは
そのモデルにはなれない。
大量販売を基本とするこれらの形態は
やはり、一定の規模を必要とするので
それぞれの生活圏に合わせたきめ細かい出店とは
少なくとも現在の状況では折り合いがつかないでしょう。

最近ではセブンイレブンが小分けの惣菜のCMを流しているのが
象徴的ですね。

ただ、コンビニもやはり一定の客数が必要でしょう。
それに、コンビニは「惣菜」などを売ることはできても
やはり大量生産の域は出ないので
食料品全般の販売が可能かはよくわからないと。

ただ、ファミマが地方のスーパーがなくなってしまったような土地に出店してゆく計画があるようです。
基本的な日用品を少量扱う店舗展開をするとか。
これは注目ですね。


そうなると、やはり小規模のお店、あるいは宅配のようなもの
これが想定されます。

もしかしたら、今後
スーパーの撤退が相次ぎ、
個人商店が復活するような時代が来るかもしれません。

スーパーもショッピングセンターもコンビニも
やはり、大量生産大量消費大量廃棄というシステムの中で
規模を拡大し地位を確立してきたのです。

これからの少子高齢時代を考えると、
「生活圏」を基盤としたモデルに適合的な形態が
必要となり、そして、広がるかもしれません。

そうすると、案外一昔前の形態である
小規模な個人商店や行商なんかが
そういった形態としてはありうるのかもしれませんね。

ただ、やはり個人商店の経営はそれほど簡単ではないはずで
そうすると、ある程度「福祉」の意味も含めた
商業形態として認識されることが必要になるのかもしれません。
いわばインフラのようなもの。



今、多分私たちのよく実感がないところで
大きく社会が動いているんだと思います。
教科書で習った以上に「少子高齢化」は大きな問題なんです、多分。
それがじわじわと迫ってきているように思います。

しかも人口減少社会に突入しているうえに、
グローバル化の進展で日本の特に二次産業はどんどん
海外に出て行っているわけです。

そうした状況では、例えば従来のように
「マンションを建設して若者を呼ぶ」とか
「工場を誘致して雇用を確保する」とか
「それらのために道路を整備する」とか
そういったことが通用しなくなるはずです。
だって、若者の絶対数は減るんだから、
住宅は基本的に供給過剰になりつつあり、
工場などネットが普及して、現場に行かねばできないことが減少し、
道路網や空港網もほぼ整備されているのに、
撤退が相次いでどんどん海外進出しているんだから
基本的にやはり誘致は夢のまた夢。


80年代までに描けたような
「都市化=成功」というような図式は成り立たないわけです。


むしろ、それなりの人口で、それなりに高齢化の割合があり、
それなりに第3次産業が中心でという状況に適合的なモデルを早く確立する必要があります。

「人口増」「若者誘致」などによって高齢化を阻止し、
現在のモデルでの成功を目指す、
こういった形で、高度成長に適合するようなシステムに
なんとか合わせるという考えは捨てた方がいい。


戦後型の成長を夢見ても、それは永遠に夢物語で、
この際、そういう考え方を全部捨てて、
新しいモデルを早く確立しないといけない。


終わりなき成長競争をしたって
結局ほとんどが「負けてしまう」わけです。

いわば、
「より便利な生活を楽しめる」モデルから
「それなりの生活を営める」モデルに転換する必要があると思います。


そのためには私たちも「便利」を手放さないといけないかもしれませんね。
今までのスーパーやコンビニのような営業時間は期待できないかもしれない。
品揃えもよくないかもしれない。
値段だって定価に近くなるかもしれない。

ただ、10年先を見越した場合、
システムを転換しないとそれこそ大変な現実が
いろんなところで現れてしまうような気がします。


さて、明日は我孫子市長選挙。

現職は54億もかけて
今さら工業団地を造ろうとしているようですが、
今更、工業団地…?
さすが自公の推薦候補ですね。


我孫子がどんなに「柏」を目指したって
我孫子は我孫子。
柏にはなれっこないと思います。なる必要もないし。

確かに、自然を保護したって
経済的な効果なんか期待できないじゃないか
と言われるかもしれない。

経済優先の思想のままならそうかもしれない。

でも、これから先もずっとその考えで行くの?
オオバン市民債が成功したように、
やっぱり「我孫子」の独自性と、そこからくる愛着ってのは
重要なんじゃないかなぁ。

「便利」なだけがウリってのはやっぱり疑問。

生活基盤として「住んでいて落ち着くことができる」
そんな環境を守ることは
やっぱり長期的には重要なことだと思います。


(どうせ企業が来る当てもない)工業団地を作ったり、
(一時的には人口が増える)巨大マンションを作ったり、
場当たり的に「市の財政」を豊かにするのではなく、
やはり「税金を払いたくなる」町にこそ
すべきだとそう思います。

さぁ、明日は市長選!

drecom_puni_jp at 00:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 社会 

2011年01月22日

パソコン!

パソコンが大晦日に壊れたことは
すでに書いた通りです。
あれ以降、自宅の画面が黒いパソコンから更新していたわけですが…



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パソコン購入しました☆

前に使ってたのの後継機。
富士通のLIFEBOOKというのにしました。

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こんなの。

選ぶの面倒だなぁと思ってるところに、
ちょうど後継機が生協で売り出していたので。

というわけで、中身が大学生協仕様です。

ただ、windows7というのがやはりいまいちよくわかりません。
何をどうすればよいのやらさっぱり。


僕は研究室ではIT弱者として有名なのですが、
いろんなことがパソコンからダウンロードしなきゃならなかったり、
メールでやり取りしたりと
やはりパソコンないとそれなりに不便なのと、
画面が真っ黒なPCで目を病むというのも割に合わないので。

とりあえずいろいろいじって慣れます(笑)



手始めにfoxブログをお気に入りに追加しました。




あ、口頭試問は他の院生より一足早く終わりました。
無事とは言い難い感じでしたがね。
でも、やはり、社学出身というところからか
どうもG先生やS先生のにこにこ顔を見ると
質問がどんなに辛くてもそれだけで安心する(笑)
もっとも、質問に受け答えてるとき
徐々に顔が引きつる我がN先生の顔色をちらちら伺ってたら
生きた心地しなかったですが(汗)


今日で、教育法の学部ゼミが終わりました。
ゼミ生の姿を見ていると、なんだか僕の勉強不足や安直な発言から
自分の未熟さを思い知らされる次第で、
非常に勉強になりました。

やっぱ、しっかりとした準備と下調べってのは
とっても重要。


来週から学部生はいよいよ試験。
(卒業がかかった)学生生活最後の試験なんて人もたくさんいるでしょうし、
3年生だって、順調に単位を取ってる人は
あと何回試験を受けられるかわからないし、
きっとみんないろんな思いで試験を受けるんでしょうね。

そんな社学生をばっちり監督します(笑)

監督しながら心の中では応援してるので、
みんな頑張ってね!

drecom_puni_jp at 02:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック つれづれなるままに 

2011年01月21日

夜明け


冬の朝の引き締まった空気は大好きなのですが、
冬の朝の夜明けも結構好きだったりします。

僕は毎週水曜日は通勤客に紛れながら
大学に朝9時に出勤しているので、
地元の駅を6:56に出る列車に乗るのですが、
冬の今の時期だと、ちょうど夜が明けてくる時間と重なります。
(でも、都内に勤めてる人はみんなこの時間の列車かもっと早いし、
部活がある小中学生もこの時間に学校に向かうし、
茨城の高校に通う高校生なんかもこの時間の列車だから
それほど朝早いイメージはないんですけどね)

だんだん朝陽がさしてきて明るくなってくる中、
白い息を吐きながら歩くのってなんだか楽しいですよ(笑)
今日も一日頑張ろうと思える。

大学に入ってから妙に朝がゆっくりになって
昼間の雰囲気に慣れちゃいましたが、
やっぱり朝の街の雰囲気も、独特の列車の雰囲気も好きです。

今日はそんな水曜の朝の写真を一枚。


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JR成田線布佐駅より、印西方面。



やっぱり地元は心安らぎます。






大学では来週からの試験に備えて
構内が活気づいています(笑)
今日生協でひたすらレジ打ちをしていたわけですが、
お客さんいっぱいいるなぁと思って数えてみたら…




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どーん!
12:00から13:00までの1時間で
なんと約200人がご来店!
1分あたり約3人~4人がレジを通過しているのですね。

これが僕が担当していたレジのみの数で
お店には計6台レジがあるので
恐らく1,000人弱が1時間にお店に詰めかけたことになります。

そりゃ、お店の中にすら入れなくなりますね。


さてさて、明日は口頭試問…(汗)


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2011年01月20日

年賀状

新年の風物詩、年賀状。

我が家に来る年賀状は日を追うごとに僕宛の割合が増えてゆくのが
毎年の慣例になっています(笑)

それだけ返信分が多いってことなんですけどね。

15日も過ぎ、我が家にもさすがに年賀状が配達されなくなりました。



僕は毎年年賀状を楽しみにしています。
以前はすべて手書きだったのですが、
最近は専ら大量生産&時間短縮効果のためにパソコンでの印刷になってます。

そんな年賀状ですが、今年は割とたくさん出してみました。
たくさん返ってきたけど、やっぱり高校の頃までに比べると
圧倒的に返信の割合は少なくなってるなぁなんて
若干寂しくなったりもします。
やっぱ手軽にメールでなんて感じなんですかね。
僕は専らアナログにはがきで出してますけど。


そんな年賀状も、年々全国各地から届くようになり
しばらく会ってない人なんかからのお便りや
年賀状でしかやり取りしない人からのお便りなどもあったりします。


そして、だいぶ自分が年齢を重ねたことに気付いたりします。

「定年退職後は趣味に没頭してます」という小学校の担任の先生、
「3月で教師生活に終止符を打ちます」という小学校の担任の先生、
「結婚しました」と写真入の年賀状をくれる同級生、
それぞれの短い文章から
それぞれがそれぞれの人生を歩んでいることが伝わってきて、
なんだか年月を感じたりするものです。

教育を受ける権利について研究してますって書いたら
「学校を職場にしようとは考えていないのですか?」と返してくれた
小学校2年のときの担任の先生。
もう19年も前のことになってしまいますが、
この担任の先生を僕は随分困らせたものです。
いろいろと先生を困らせたり
今考えると非常に恥ずかしい行いの数々があったり、
まぁ、今僕が先生の立場にいたら大変手を焼く子どもだったはずです。
クラスの中でも。
そんな担任の先生は、僕が3年生に上がるとき、
異動で小学校を去りました。
当時、3月31日に辞校式というのが行われていたんですが、
何故か、そんな手を焼かせるばかりの僕を、
先生は辞校式で先生に花束を渡す係に指名してくれたのです。

そんな先生もこの3月で37年間の教員生活に終止符を打つそうです。
僕たちを受け持っていたのが1992年度。
ちょうど教員生活折り返しの頃だったんですね。


年賀状じゃなくて先生の話になっちゃいましたが、
短い文章から、その人のことがありありと思い出されるから
やっぱり年賀状って好き。


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2011年01月19日

アメリカン・デモクラシーの逆説

昨日は阪神・淡路大震災の話しをしましたが、
よく考えると、翌日の1月18日は
小学校の創立記念日だったので、
きっとさまざまな報道をたくさん眺めていたんだと思います。

創立記念日、すっかり忘れてた。


さて、今日読了したのはこちらの本。

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渡辺靖著
『アメリカン・デモクラシーの逆説』
(岩波新書新赤版1277)2010年


最近、本の話ばっかりですね。
義務でなく読む読書は楽しいものです(苦笑)

著者はアメリカをフィールドとし、アメリカを専門としている
人類学者のようです。


アメリカ苦手な僕でも楽しく読めるお勧めの一冊!


タイトルにあるように、ここで扱われているのは
さまざまな「逆説」。
「逆接」ではなく「逆説」。パラドックスですね。

アメリカという国はさまざまな規定のされ方をするようですが、
正直、「よくわからない国」でもあります。

そして、やはり個人的にはアメリカに良いイメージはあまりなく、
これは、英語ができない者の僻みかもしれませんが、
やっぱり、アメリカ中心主義とでも言うような
アメリカ=世界というような匂いを感じ取ってしまうのです。


アメリカ、特にこの30年間のアメリカの姿は、
レーガンの新自由主義的、新保守主義的政策や
イラク攻撃やテロとの戦い、愛国主義などに代表されるように、
アメリカに好感を持っていた人にさえ、
最近のアメリカはどうしてしまったんだろう?
自由なアメリカの空気はどこにいってしまったんだろう?
という思いを抱かせたようです。


そんなアメリカのデモクラシーを
著者はさまざまな「逆説」を読み解くことで
解釈してゆきます。
そもそも、何故「新自由主義」と「新保守主義」という
並存しないはずの勢力が共存できるのかといったことに始まり、
「自由」を愛する国が、いとも容易く「自由」を強制することなど
さまざまな「逆説」からアメリカを解釈してゆくわけです。


そのなかで、憲法にとってはなじみの深い
「連邦」をどう見なすかといった問題も出てきますし、
レーガンの保守大連合の4つの勢力、即ち
1.強いアメリカの復権を目指す安保保守(新保守主義、ネオコン)
2.小さな政府を目指す社会保守(新自由主義、ネオリベ)
3.伝統的価値の回復を目指すキリスト教保守
4.従来からの穏健保守
というこれまたよく目にする話も登場します。

ただ、この本では、単にアメリカン・デモクラシーの逆説が
「アメリカ駄目じゃん!」と描かれるだけではなく、
アメリカでさえ「グローバル資本主義」からは自由ではない
ということを主張され、
さらに、悲観したくなるアメリカの現状の中にも
アメリカらしさが見出されており、
それなりに面白く読み解けます。

「逆説」というキーワードは非常にわかりやすい軸を提供してくれるもので、
世の中のさまざまな部分に見えてくる「逆説」が描かれ、
それこそ「結局アメリカって何なの?」と問いたくなるのですが、
さまざまな「逆説」を丹念に読み解くことで
最終的には「自己修正力」にアメリカのデモクラシーの特徴を
見出してゆくわけです。
強いて言うなれば、「逆説」が生じるほど
アメリカは一方に極端にぶれることができないところに
アメリカのデモクラシーの魅力がある
といったところでしょうか。


アメリカにはあんまり良い印象がないのは先ほど書いたわけですが、
そんな僕でも、アメリカのデモクラシーの生命力のようなものを
感じるようなそんな本でした。


話はまったく本の話ではないのですが、
「アメリカ」に対する日本人の理解で、一番欠落しているのは
恐らく「キリスト教」の影響ではないかと、大学院に入ってから
つくづく思うようになりました。
こと宗教には寛容というか無関心な日本人。
それでもヨーロッパにはキリスト教のイメージがあるし、
インドだとかイラクだとかアジア諸国にもそれぞれ宗教のイメージが
あったりするわけです。
ところが、案外アメリカは日本並みに「宗教と関係ない国」という
イメージがあるように思えます。
実際僕もアメリカと宗教を結び付けて考える機会は余りありませんでした。
アメリカにわたったのはみんなキリスト教徒だったってことは知ってたはずですが。

やっぱり、宗教=伝統みたいなステレオタイプがあるんでしょうね。
京都・奈良に代表されるような古い寺社仏閣、
ヨーロッパにあるような典型的な教会、
確かにアメリカにはあんまりそういうイメージはありません。

ところが、アメリカは非常にキリスト教の影響が強い国なわけで、
キリスト教原理主義が非常に大きな影響を持つわけです。
キリスト教保守派の批判で、
(創造説と矛盾するので)州で進化論を教えることが禁止された
なんて話、日本ではよく理解できないわけですね。
しかも、それがアメリカで起こっていることがまず理解できない。
アメリカなのにキリスト教がそんなに深く関わってるの?
アメリカなのに非科学的なことがまかり通るの?
なんて思ってしまう。


そういう意味でも、まだまだアメリカ理解が足りないなぁ
なんて思う今日この頃です。

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2011年01月17日

あれから16年

今日で阪神・淡路大震災から16年になりました。
1995年1月17日、当時小学校4年生だった僕は、
確か、朝、大阪のほうで大きな地震があったらしい程度の
情報だけで、普段通り登校した記憶があります。

確か、1年前の1994年にはロサンゼルスで大きな地震があったのも
当時学校にはってあったカレンダーで見た記憶があります。

あとは倒壊した高速道路や辛うじて道路に乗った状態の観光バス、
脱線した電車や液状化した港、
火災が続く町や全焼した商店街、ワンフロア潰れたマンション、崩れたビルなど、
その日の夜から数日間はそういったさまざまな映像がテレビで流れました。

さらに、物が足りない、物資が届かないと言う話、
ボランティアが活躍し始めたと言う話も報道されるようになり、
うちの小学校でも児童会を通じて
「神戸の子ども達に文房具を贈ろう」ということで
僕も鉛筆やらノートやら消しゴムやらといった類の文房具を
寄付したのを覚えています。
もっとも、子どもがどうこうできるノウハウを持っているわけではないはずなので
きっと教委なり教組が間に入ったんでしょうが。
確か、あとになってお礼の手紙みたいなのが届いて
児童会室の前に貼ってあったようにも思います。
そして、確か神戸の方から転校してきた子もいたように思います。


さて、そんな記憶がある地震ですが、
当時ちょうど微妙な年齢だったので、記憶に偏りはあります。
やはり、テレビや新聞で見る映像は非常に恐ろしいものがあり、
それを象徴するものを挙げれば前述のようにキリがない訳ですが、
一方で、新聞記事やニュースの内容を完全に理解するには
ちょっと知識が足りない状況なので、
やっぱり映像のインパクトが非常に大きかったですね。

我が家はもともと関西出身ではないこともあって、
神戸近辺に親戚などはいなかったので
そういう面では割と安心できたのですが、
毎日伝えられる神戸の様子に、
子どもながらに地震の恐怖を目の当たりにした気がします。

あのあと、我が家でも、家具に金具を取り付けて固定したり、
非常用持ち出し袋を用意したりと、
それなりに一般に言われていた防災準備はしました。
ブロック塀に近づかないとか、瓦屋根に気をつけるとか、
いろいろと地震対策のような話も聞きました。

あの地震のあと、さまざまな耐震対策が各所で行われ、
我孫子にも「免震マンション」なんかが建てられました。
恐らく、建築物は当時より、だいぶ地震に強くなったんでしょう。


神戸も徐々に復興し、
「がんばろうKOBE」がキャッチフレーズになり、
仮設住宅が建てられ、鉄道が開通し、高速道路が開通し、
倒壊していたビルも再建されていきました。
それでも、何年もの間、爪あとはしっかりと残り、
仮設住宅での孤独死が問題になったり、
そこからコミュニティの大切さが話題になったり。

それでも16年も経つと、そういった目に見えるニュースは
ほとんどなくなるというのが現実のようです。

毎年1月17日にはさまざまな地震関連の報道番組が
各放送局で報道されていました。
震災から5年が経過するくらいまでは
復興の様子や過程がさまざまな形で報道された記憶がありますし
10年が経過するくらいまでは
復興とそれをめぐるさまざまな事柄が報道されていた気がします。
その後も毎年さまざまな報道がされていますが、
それでも、なんだか今年はだいぶ減った気がします。
確かにNHKだけは色々な番組を流していましたが、
民放各社は特番を組むこともなく、
大地震より大寒波や大洪水の方が話題になっていたようです。


去年で15年と言うひとつの節目だったことも関係しているのかな。

僕にとっては小学校4年生のときから
16年間、あっという間に過ぎ去ったので、
つい昨日のことのような気もするのですが、
確かに16年と言う年月は大きいのかもしれません。

16年って言われると、「もうそんなに経ったの?」と思いますが、
震災の年に生まれた子どもがもう高校生。

例えば、1945年の終戦から16年というのは
1961年で、高度経済成長の入口、東京五輪の3年前。
歴史でそれを習う側の感覚からは16年ってやっぱり長いように感じます。
1995年より16年遡ると1979年。
さらに16年遡ると1963年。
こうやって自分が知らない年が出てくると、
確かに16年って随分遠いように思います。
(勿論、その時代を生きてきた人にはあっという間なんでしょう。)

ただ、普通に考えれば、確かに10年、15年を過ぎると
リアリティーは減少し、客観的に振り返るというような立場になってゆくのかもしれません。

阪神・淡路大震災はさまざまな意味で戦後日本の転換点の一つであると言われています。
高速道路の倒壊に象徴される安全神話や国への信頼の揺らぎ、
大規模なボランティアの活躍という日本ではじめて目にする光景、
地域コミュニティーへの新たな関心などなど
3月の地下鉄サリン事件、8月の戦後50年とあわせて
日本社会の転換点と呼ばれることが多いわけです。

ただ、そういった話を抜きにしても、
やはり伝えないものはだんだん風化してしまうのは事実。
言ってみれば「阪神・淡路大震災?歴史の教科書で見た気がする」
という人びとがこれからどんどん増えてゆくわけで、
過去の話になるのは仕方ないにせよ、
どのような過去の話になるのかというのは重要にも思えるのです。

だからといって僕自身に何ができるというわけでもないのですが、
小学校4年のあの日、あの時期目にしたこと、記憶を
1年に1度くらいは思い出したいものだと思います。

drecom_puni_jp at 23:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 社会